「踏み間違い」という名の方便──暴走事故の裏にある“構造的な過失

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🕯️ はじめに──「踏み間違い」という言葉への違和感

近年、高齢ドライバーによる「暴走事故」が繰り返し報じられている。
しかし、そのたびに警察が口をそろえて発表するのが——

「アクセルとブレーキの踏み間違い」

という定型文である。

だが、冷静に考えてほしい。
もし「踏み間違い」に気づいたのなら、人間は反射的に足を離す。
それでもなおアクセルを踏み続け、何十メートルも暴走する——
それは「誤操作」ではなく、「制御不能」だ。


⚠️ 本当に踏み間違えたのか?

「踏み間違え」という言葉は、まるで“不可抗力の人為的ミス”として処理できる便利なフレーズです。
しかし、目撃証言の中には「車が急発進し、止まる様子もなかった」というものが少なくありません。

パニックを起こしたとしても、数秒間もアクセルを踏み続けるのは不自然です。
つまり――そこには“別の事情”が隠されている可能性があるのです。


🏗️ 政治と産業の裏にある利害構造

トヨタを筆頭に自民党へ流れる企業献金

日本の自動車産業は、政治・行政・メディアに深く根を張っています。
自民党への企業献金ではトヨタが筆頭
日野、ダイハツ、スバル、日産といった主要メーカーも政治資金を提供しています。

政治の側も、自動車業界の経済的影響力を軽視できない。
結果として、事故の真因に踏み込むような報道は“空気的に”避けられるようになっています。

認知症検査を担う警察OB団体の利権構造

運転免許更新における認知症検査は、形式的な“講習ビジネス”と化しています。
その実施団体には警察OBの天下り先が多く、
免許返納が増えると検査費用という収入源が減る

つまり、「返納させないほうが得」という構造ができあがっているのです。

「免許返納が進まない方が得」な人々

自動車業界にとっても、免許返納が進めば販売台数が減少します。
高齢者は新車購入の大きな顧客層でもあるため、
「まだ運転できる」「検査に通った」と安心させる仕組みが、暗黙のうちに温存されています。

メディアはなぜ検証しないのか

メディアは警察発表をそのまま報じる。
背後にある業界との広告・スポンサー関係を考えれば、
報道機関もまた、真実を掘り下げづらい立場にあります。
こうして「踏み間違い」という単語だけが独り歩きしていくのです。


🚗 誰が得をする「踏み間違い」

この説明で得をするのは誰か。
まず、自動車メーカーだ。
暴走の原因を「人間のミス」として処理すれば、車両の設計や安全システムへの責任は問われない。
特にトヨタをはじめとする自動車産業は、自民党に多額の献金を行っている。
政治資金パーティーや業界団体を通じて、与党と密接な関係を築いているのは周知の事実だ。

つまり、「踏み間違い」という言葉は、政治的に便利な表現なのだ。


🧩 警察の「踏み間違い」処理が生む構造

一方、警察にも動機がある。
警察に導入してるパトカーの殆どが自民党献金企業第1位のトヨタである。当然ながら癒着しており警察OBが自動車関連の団体に天下りも多い。
また、高齢者の免許返納を促す一方で、「認知症検査」は医師不在のザル検査であり形式的なものである。
実はこの検査、運転免許センターや指定の自動車教習所で認知機能検査を担当する「認知機能検査員」に警察OBが就いているケースが多く、検査費用という小さな利権構造が存在する。

もし認知症を理由に免許を一斉に取り上げれば、検査や講習による小収入が消える。
だから「制度を維持しつつ問題を矮小化する」方が都合が良い。


⚖️ 危険運転致死傷罪と「認知症の抜け道」

日本には「危険運転致死傷罪」という厳罰規定がある。
飲酒や薬物使用など、「正常な判断能力を失った状態」での運転を処罰する法律だ。

だが、ここに大きな抜け道がある。
認知症の場合、判断能力が低下していても「心神喪失」と認定されない限り、責任能力は残る。
その結果、危険運転ではなく「単なる過失」扱いになる。

認知症の場合、何をしているのかすら分からない、運転してることすら記憶から飛ぶ、だから結果としてアクセルを踏み続ける、間違いだと判断できるのであればアクセルを踏み続けることはしない。それなのに故意に警察が「踏み間違え」にし過失としてるのは意図的に刑を軽くしてるに他ならない。

警察が「踏み間違い」と発表する限り、構造的に危険運転致死傷罪は適用されない。
つまり、「踏み間違い」という言葉は、法的にも責任逃れのためのキーワードとなっているのだ。


🧠 認知症=判断能力喪失ではない、という欺瞞

本来、認知症によって判断力を失っている状態は、飲酒や薬物と同様に「正常な運転ができない」状態である。
それにもかかわらず、法体系はそれを明確に危険運転として扱わない。
この法の「見て見ぬふり」が、犠牲者を生み続けている。


🏛 自民党と警察、そして「沈黙の構造」

戦後、自民党はGHQの統治装置の延長として生まれ、警察機構とともに「秩序維持装置」として機能してきた。
かつて公安警察に共産党監視を命じていたように、警察は常に政権維持のパートナーである。
現在でも天下りや予算配分、利権構造の中で自民党と警察は密接につながっている。

この関係のもとで、政権に不都合な真実——
すなわち「制度的欠陥」や「業界との癒着」——が
「踏み間違い」という言葉で隠蔽されているのである。


🧩 構造的過失としての「暴走老人事故」

個人の責任ではなく、制度の設計ミス

事故を“個人の過失”として終わらせれば、
政治も行政も責任を取る必要がありません。
だが、本来は制度そのものの欠陥が問われるべきです。

利害のために歪められる「原因」

車を売りたい業界、検査で稼ぎたい団体、数字を守りたい官庁。
それぞれの思惑が絡み合い、真の原因を覆い隠しています。
事故の「原因」は、構造的な“都合の産物”にすり替えられているのです。


💢 人が亡くなっているのに「間違えた」で済ます社会

人が亡くなっているのに、
「踏み間違え」で終わらせていいのか。

警察はなぜ、原因を突き詰めないのか。
メディアはなぜ、その発表をそのまま流すのか。

誰かの命が奪われた現場で、
「報告を整える」ことだけが優先される現実に、
強い怒りを覚えます。


🧭 結論──“間違い”ではなく、“作られた物語”

認知症患者がハンドルを握って事故を起こしても、
「踏み間違え」とされて終わる日本の構造。
あくまで過失であって危険運転致死傷罪で処理する警察の職務怠慢。

それは“人為的なミス”ではなく、
制度と利権が生み出した構造的な過失ではないでしょうか。


❓ 読者への投げかけ

認知症の老人がハンドルを握る現実。
その裏で、車の販売を守り、検査利権を維持しようとする構造。

事故の責任を「個人のミス」に押し付け、
本当の原因に光が当たらない日本社会。

――あなたは、この「踏み間違え」という言葉をどう解釈しますか?